昨年10月から今年2月にかけて、当ブログにて「イスラエル野球紀行」という記事が連載されました。
(全ての記事についてはこちら→http://kozo.boxerblog.com/kozo/cat2140867/index.html)
イスラエルで初めて行われたプロ野球リーグを訪れ、現地の状況を『野球小僧』10月号の「ワールドベースボールレポート」に寄稿頂いた“放浪野球観戦”の第一人者・石原豊一氏が、そのときの旅の成りゆきをさらに詳しく綴った内容に多くの反響を頂きました(そのイスラエルリーグですが、資金難で開催が見送りとなっていたものの、7月から再開される運びとなったようです。よかったですね)。
世界のありとあらゆる野球を求めて時間を作っては“放浪野球観戦”を続ける石原氏。今度は、昨年末にメキシコのウインターリーグに行ってきた際のレポートを寄稿して頂きましたが、いよいよ今回が最終回です。
日本のほぼ反対側で行われている中南米の野球。その中でも古い歴史を誇るメキシコの野球はメジャーリーグやWBCなどで多少は知られるようになりましたが、それでもなかなか得られるものではありません。
石原氏が自ら体感してきた貴重な生の「メキシコ野球」の雰囲気を、ぜひ一緒に味わって下さい。
viaje04-2 2007年12月30日/テクアラ・ブロンコス対コンポステーラ・プレロス
(プレーオフ4回戦、テクアラ・アドルフォ・ルイス・マテオ球場)
メキシコのスカウティング
予想だにしなかったサイン攻勢がひと段落つき、ネット裏の座席に回ると、そこには熱心にスコアをつけている白髪頭の男がいた。
私を見つけると男の方から声をかけてきた。異邦人の私を同業者だと思ったらしい。彼はビジターチーム、プレロスの親球団、タイガースのスカウトだった。
自分のチームの試合をスカウトが見ているというのは変な感じだが、このリーグなどの「マイナーリーグ」の選手契約と「リガ・メヒカーナ」のそれは根本的に違うのだろう。彼らスカウトは年中行われている田舎リーグに足を運んでは、ものになりそうな選手を「1軍」へと「スカウト」しているのだ。
また同時に、彼らは各地の学校や少年野球の選手も物色して、原石を発掘する。
この日もタイガースには、15歳の少年が帯同していた。ブルペンでピッチャーの球を受けていたが、彼は北隣のシアロア州のマサトランからクリスマス休暇を利用してこのリーグに「見習い」で参加しているのだ。
無論選手登録はされておらず、報酬もない。アマチュア野球がさほど盛んでないメキシコの各球団はこのように少年達を発掘しては自チームのファームに送り込み、契約できるまでその適性を見るようにしているらしい。そうして発掘した「金の卵」をMLBに売りこむ、なんてことも全く可能性が無い話ではないのだ。
というのも、「リガ・メヒカーナ」は独立したリーグとはいえMLB傘下のマイナーリーグの統括組織、「ナショナル・アソシエーション」の一員である。メジャー球団と直接ファーム育成契約こそ結んではいないものの、リーグ全体がMLBの下部組織という位置付けなのだ。
MLB球団は「リガ・メヒカーナ」の選手が欲しい場合、その契約を買い取る必要があり、このことがメキシコ球界がラテンアメリカにあって比較的自立性を保てている要因になっている。
その一方、自軍の選手をアメリカへ「輸出」することは、メキシコの球団のビジネスの一部でもある。例えば、プレロスには夏場アメリカでプレーしていた選手がいるが、彼の契約金の10万ドルはその多くが球団に搾取され、実際に本人の手元に残るのは4分の1の2万5千ドルでしかないそうだ。
この日勝利したブロンコスの面々 |
試合の方はというと、すでに6回裏に達していた。この回に大きな動きが生じる。
過密な日程を避けて、プレーオフ勝ち抜けを決めてしまいたいプレロスは、小刻みな継投でなんとかブロンコスの追加点を食い止めようと目論んだが、ブロンコスはこの回、先頭打者の二塁打を足がかりにスクイズで1点を追加、最後は3番デュランのレフトへの3ランホームランで試合を決定づけたのだ。
最終回、プレロスは先頭打者からの連続フォアボールやワイルドピッチから2点を返したが、それまで。リリーフのリラサガが、この日2安打の3番フェリックスを三振にうちとってゲームセット。ブロンコスが4タテをまぬがれて瀬戸際で踏みとどまった。
帰途につくスタッフ達
試合が終わると、ビジターのプレロスの一堂は簡単なミーティングのあと、すぐに片付けに入った。彼らは無論、この町に泊ることなくこのままコンポステーラに帰るのだ。
チームのロゴで彩られたバスに、片づけが終わった選手が次々と乗ってゆく。私も州都テピックまで乗せてもらうことになっていた。
このバスは奥に寝台まである豪華版だ。ただし、その分座席数は少なく、選手は大きな体を小さくして席を詰めて座っている。
早い者順なのか、選手の中での暗黙の序列があるのか、何人かはベッドに入り早速いびきをかいていた。
出発の後、すぐにいつものようにサンドウィッチとコーラがひとりひとりに配られた。そして、バスがハイウェイに入ると、車内は静まり返り、眠りについた。
我々が降ろされたのは、テピックの町の入口ではなく町の郊外だった。我々というのは私と共に2人のスタッフがバスを降りたからだ。
1人はこの近所に住んでいるスカウトで、そのまま横道へ消えて行った。
もう1人はコーチで、バスターミナルの近所に住んでいるから一緒に行こうということになった。タクシーを待ったが、市街行きのバスが来たのでそれに乗って向かうことにした。
プレロスは「1軍」のティグレスとピラタスからの選手を受け入れているが、このコーチはティグレスの所属だ。現役時代も首都メキシコシティにあったティグレスでプレーしていたという。
選手、スタッフの報酬の決して高くないメキシコ球界にはオフなどほとんどない。彼らは年がら年中野球を携えて広いメキシコ中を旅するのだ。
彼が家庭に帰れるのは、この「ノロエステ」の時期だけ。2月になれば、北部ヌエボレオン州のアカデミーでルーキー達を指導、その後、春のマイナー、「タバスケーニャ」へ、それが終わると夏のマイナー「ノルテ・デ・ソノラ」で指導にあたるという。
「暑すぎるところから、寒すぎるところへ。年中大変だよ」
確かにメキシコのマイナーは短期間でリーグを終え、場所を変えて年中行われる。灼熱のカリブ海沿岸や北西部の砂漠もあれば、底冷えのする山間部もある。過酷な環境の中、プレーする選手、スタッフはまさにこの国の野球を底辺から支えていると言っていいだろう。
バスから降りたところは、私が最初に訪れたウニベルサリオ球場のある大学の正門前だった。数日前、ここからナイター照明を頼りにスタジアムを探し当てた、あの大学だ。
ここからターミナルまでは、歩いても20分ほど。乗り換えのバスがなかなか来ないので、歩いて行こうかと言う私を横目にコーチは手を挙げてタクシーを停めた。
ターミナル前まで行きタクシーを降ると、そのコーチとは握手をして別れた。そして、メキシコシティ行きのバスが出るところだったので、それに飛び乗った。
メキシコのプロフェッショナリズムを考える
フィールドには見ただけで整備が行き届いていないのが分かるような球場もあった。しかし、メキシコの選手はそんな中でもプレーを続ける |
バスの中で、この田舎リーグのことを思い出した。まさにベースボールの果てと言っていい過酷な環境だった。
コンポステーラでの試合では、どう見てもバッターボックスの長さが足りず、打者はボックスから足を出して構えていたし、外野フェンスではペンキで書かれたスコアボードに点数を入れるため、プレー中でもスコア係がボードを並べてフィールドに突っ立っていた。
また、テクアラ球場の内野には、割れたビンの破片が地面に突き刺さっているなんてこともあった。ここでダイビングキャッチを試みようものなら、それこそ血みどろになっていただろう。
しかし、彼らはこんな環境の中、必死でプレーしている。その姿にはるかなメジャーリーグを夢見たひたむきさがある。
…なんて言ってしまうときれい事に聞こえるが、現実的にはメジャーリーグへ上りつめる選手はほとんどいないのが実情で、彼らの想像の中にもそんな「外国」のリーグでプレーすることなんてほとんどないだろう。
彼らの当面の目標は、「リガ・メヒカーナ」に上がり、そこそこの給料をもらえる身分になることなのだ。それが彼らにとって好きな野球を続け、生活の糧を得る道だからだ。
そんなリーグに集う選手たちの姿に、日本の選手のようなプロフェッッショナリズムは見受けられない。
しかし、過酷な環境の中、生活のためにプレーを続ける彼らもまた立派なプロである。そこにはメキシコ野球ならではのプロフェッショナリズムがある。
この数試合で、私は確かにそれを見たような気がした。
<完>
■石原豊一(いしはら・とよかず)
1970年生まれ、大阪府出身。圧倒的な行動力で、これまでアジア、アメリカ、中南米、ヨーロッパなどを渡り歩く「流離いの野球好き」。国内はもちろんのこと、すでに世界各国200を超える球場で野球を観戦してきた。イスラエル野球リーグが開幕したときも、早速現地へひとっ飛びしたほどの行動派。
※石原豊一氏による過去のレポートはこちら
●イスラエル野球紀行
→http://kozo.boxerblog.com/kozo/cat2140867/index.html
●北信越BCリーグ開幕レポート
→http://kozo.boxerblog.com/kozo/2007/05/post_4ba1.html